小暮写眞館

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主人公の「花ちゃん」(本名の「花菱(ハナビシ)」から).

弟の「ピカ」(本名の「光(ひかる)」から).

親友(女)の「コゲパン」(丸顔で色黒だからという理由.本名は「寺内千春」).

親友(男)の「テンコ」(本名の「店子力(タナコツトム)」から).

ST不動産の毒舌女性事務員「ミス垣本」(社会人としての常識をいろいろミスしているように見える,という理由から.本名は垣本順子).

引っ越し先の「小暮写眞館」で繰り広げられる様々な人間模様.

日常生活の中で目にしたり耳にしたりする人間の行動や言葉,その根底にある人間の気持ちは読み取れないことが多いけれど,それが個性あふれる登場人物によってピンポイントで掘り起こされていく. その展開にじわりじわりと引き込まれていった.

登場人物の含蓄のある言葉が印象的だった. でも,その登場人物は高校生だったり小学生だったりする. 同じことが中年のオッサンによって語られていたならば,この小説の面白さは半減していたかもしれない. 子供が言うから心に響く,という言葉があると思う. 語り手に高校生や小学生を選んだ宮部みゆきさんの構想力,そして,人間の発言の奥底にあるものを掘り起こす人間観察力に感服した.

これまで味わったことのない新しい面白さのある作品だった.

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magnum opus

July5_004  やっと手に入った.

 ムラカミさんの新作,『1Q84』.

 どの書店に行っても売り切れでなかなかお目にかかれなかった. 昨日たまたま通りかかったOdakyu BOOKMATESで入荷しているのを発見した. ようやく手に入ってとてもうれしい.

 ムラカミさんの新作を手にして,ムラカミさんのような作家と同じ時代を今現在自分が生きていて,ムラカミさんの新作をすぐに書店に買いに行くことができるってもしかしたらすごいことなのかもしれない,と改めて思った. たとえば,あと50年,あるいは100年が過ぎても,ムラカミさんの作品は書店に並び続けるであろう. そのムラカミさんの新作が出版と同時に読める,というのである. やっぱりすごいことだと思う.

ムラカミ・ハルキ文学は「世界的である」と言ってよいと思う. 英語,フランス語,ドイツ語,ロシア語,中国語,韓国語,ハンガリー語,フィンランド語,デンマーク語などに訳されており,その語種は年々増加している,という. 

わたしが留学していたオーストラリアのモナシュ大学には,ムラカミ・ハルキ文学を研究しているオーストラリア人大学院生がたくさんいたし,ハワイ大学にも,ムラカミ・ハルキ文学を研究しているアメリカ人大学院生がたくさんいた. ある一人の作家の小説作品の価値が日本を越えて世界中の人々に認められ,それを研究対象にしようとする文学者が世界中にいる,という現象はとてもすごいことだと思う. ムラカミ・ハルキの作品には,世界中の人々に共感される何か原型的なものが描かれている,ということなのかもしれない. 

内田樹先生は,「世界的レベルの作家」について次のように述べている.

すぐれた作家というのは無数の読者から「どうして私のことを書くんですか?」といういぶかしげな問いを向けられる. どうして私だけしか知らない私のことを,あなたは知っているんですか? というふうに世界各国の読者たちから言われるようになったら,作家も「世界レベル」である.

自分の脳内にあるもの,でもそれが何であるか言葉にできなくてモヤモヤしている人は意外に多いのではないかと思う. それを言葉にできるのが内田先生の言う「世界的レベルの作家」であり,そのモヤモヤが,ムラカミ作品の中で描かれる「世界中の人々の共感される何か原型的なもの」なのかもしれない.

July5_007 今日のThe Japan Timesの書評欄は,偶然にも,ムラカミさんの『1Q84』についてだった. 

 予備知識が入ってしまうと読む楽しみがなくなるのでざっとしてか読んでないけれど,書評の最後に,「『1Q84』は,ムラカミさんの"magnum opus"になるだろう」と書かれていた.

"magnum opus",つまり,「最高傑作」,「終生の大作」という意味である. ひょー.

今日,行きの電車の中で最初の5ページほどを読んだ.

青豆さんって人が出てきた. この名前は,ムラカミさんが居酒屋メニューを見ていて思いついたのだと何かのテレビ番組で言っていた. 枝豆さんでも空豆さんでもなくて青豆さんにしたところにムラカミさんのすごさを感じる. さすが世界のムラカミだ.

もったいないので青豆を食べるみたいにちびちび読むことにしよう.

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君の知らないところで世界は動く

41kjzr65mhl_sl500_aa240__2  最寄り駅前に区立図書館があるので,いつも二週間に一度本を3~4冊借り,通勤電車の中で読んでいる.

 4月は片山恭一さんの本をたくさん読んだ. その中で,『きみの知らないところで世界は動く』(2003)が特に心に残ったので,ここに書いてみた.

 物語は,主人公の「ぼく」と友人の「ジーコ」と恋人の「カヲル」の三人を中心に展開される. 三人とも同じ高校の同級生である. 高校を卒業し,別々の道へ進むことになった三人だが,「ぼく」と「ジーコ」,「ぼく」と「カヲル」,そして「カヲル」と「ジーコ」の絆はさらに深いものになっていく. でも,絆というのは,深まれば深まるほど,苦しく切ないものにもなりうる. そんなことを考えさせられる物語だった. そして,それは,友人の「ジーコ」の言葉に込められたメッセージでもあった.

友人の「ジーコ」は,「コージ」という本名をひっくり返しただけという実にシンプルなニックネームなのだが,このジーコは,そんなシンプルなニックネームとは相反して,いつもすごく深い言葉を口にする少年である. あまりに深いので,一見,世間の枠組みからこぼれ落ちてしまった偏屈少年のように思われてしまいがちなのだが,実はジーコの言うことはいつも正しいのである. わたしたち読者は,後になってそのことに気がつく.

例えば,こんなセリフがある. 夏休みに,ジーコが「ぼく」を旅行に誘う場面がある. 

「…旅行には地図を持っていかないのがポイントだ. だいたい地図に何が書いてあるっていうんだ? 地図なんて学校の教科書みたいなもんじゃないか. 本質的なことは何一つ書いちゃいない」

実はわたしたちは物事の上辺だけをひっかいているだけで,本質的なことは何も分かっていないことが多いのではないか,ということを考えさせられた.

この物語を読んだ後で,「ジーコ」に会いたくなった.

でも,「ジーコ」はもういないのである.

久しぶりに良い作品に出会った.

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文章読本さん江

日本に帰国中,秀逸な文章読本に出会った.

「文章読本」とは,「文章の上達法を説く本」のことである.

日本の書店に行くと,必ず文章読本コーナーがある. 『論理的に書く方法』とか『小論文の書き方』とか『超・文章法』とか,それを読めば文章の達人になれるかのように思わせるタイトルの文章読本が並んでいる. ちょー.

こうした文章読本は,元・新聞記者や現役新聞記者によって書かれていることが多い. そして,たいてい朝日新聞の記者であることが多い. ここには,サンケイとか東スポの記者は登場しない. 文章業界にもヒエラルキーが存在していることが分かる. 「人生初でんねん.阪神・関本,満塁弾!」とか「虎・M46点灯や~」とかサンケイの記者でないと書けない文章術だってあると思うのだが. おかげで関西は盛り上がっているわけであるし. 最近の阪神ネタでした.

朝日新聞の記者によって書かれた文章読本には特徴がある. 素人の書いた文章を「悪文」のモデルとして挙げ,これがダメあれがダメとメッタ斬りし,勝手に手直ししていくことである. 読み手は,このメッタ斬りと手直しを通して,文章の上達法を学ぶことを期待される.

しかし,この「メッタ斬り」にはずっと疑問を感じていた. メッタ斬りの裏には,新聞記者の方々の「記者=文章のプロ」,「一般人=アマチュア」という論拠のない一方的なラベリングとヒエラルキーが垣間見える. しかし,記者が手直しする文章は,本当に「良い文章」そして「おもしろい文章」に仕上がっているのだろうか? たとえば,最近のサンケイの記事,「人生初でんねん.阪神・関本,満塁弾!」の「でんねん」の部分は,朝日新聞の記者によって赤線で消されてしまう可能性がある. (「でんねん」とは,日本語文末表現「です」の関西方言である.主に大阪の男性によって使用される傾向がある.と思う) なるほど規範に忠実に従った「正しい文」になるのかもしれない. が,訂正された文からは「おもしろさ」が微塵も感じられなくなってしまう. 最も問題なのは,「自分」が消えてしまうことである. 

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つまり,「正しいこと」と「おもしろいこと」は両立しない,ということである.

ということを指摘しているのが,斉藤美奈子著,『文章読本さん江』(筑摩書房 2002)である.

文章を書くこととかその指導法に興味を持っているので,これまでいろいろな文章読本を読んできたわけだけれども,新聞記者が一般人の文章を「悪文」と決めてかかる姿勢には疑問を感じていた. その新聞記者たちが作り上げた階層構造を,斉藤美奈子氏がするどい批評力によってばっさばっさと切り捨ててくれている. 大変心地よい. 

斉藤美奈子氏のメッタ斬りは,文章読本の御三家である谷崎潤一郎,三島由紀夫,清水幾太郎,さらに新御三家である本田勝一,丸谷才一,井上ひさしにまで及ぶ. 「おまへこそ〈筋道がよく通っていないこと〉を学ぶ格好の題材だ」とか言っている. 多くの人が感じていながらも大きな声では言えなかったこと,見て見ないふりをしていたことを,白日のもとにひきずり出し,メスで裁いている. メス裁きの素晴らしさは,しっかりした文献研究と引用のうまさに支えられている. 

メス裁きといっても,ただの批評で終わっているわけではない. 文章読本を引用し批評することでそれ自身が文章読本になっているのがこの本の特徴である。 「メタ文章読本」である.

さらに,文章読本にたえざる需要がある理由として,日本人の多くが「学校でちゃんとした文章を書く訓練を受けなかったと思っている人が多いからである」と指摘し,学校での作文教育の歴史をたどりつつ,文章読本というジャンルが生まれてきた理由を解明している. 

そして,文章の目的を「表現」と「伝達」の二つに分類し,日本の学校が教えてきたことは,芸術文の鑑賞と身辺雑記のたぐいの文章による「自己表現」に偏っていたこと,「伝達のための文章」をなおざりにしてきたことを指摘している. 「思ったとおりに書け」という日本独特の作文教育が生まれてきた歴史的経緯について,これまで知らなかったことをこの本を通して学ぶことができた. おもしろかった.

最終章で,「文は服なり」という言葉を残している. 「衣装が体の包み紙」なら「文章は思想の包み紙」である,と. 思想は文章という衣服を身につけて初めて現われることができる. つまり,文章力というのは,「思ったとおりに書く」だけで身につくものなんかではないのだ. 着こなしの技や知恵をたくさん持つこと,ファッションの引き出しを増やすことで身につくのである. 

文は服なり. よい言葉だと思います. TPOごとに服を自在に着替えられる文章家になりたいと思った. この本はおもしろかった.

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AB型

July8_005  血液型による「自分の説明書」なんてばかばかしいと思いつつ,

 買ってきてしまった.

 何だ買ってるではないか.

 読んでみたら結構おもしろかったのだ.

7割方当たっていると思った.

徐々に仲良くなってきた人に「血液型何型?」と聞かれ,「AB型」と答えると,その瞬間ビミョウな空気が流れることがある. 

ぞのビミョウな空気の原因をこの"7割"が説明していると思った.

1.基本操作編

「まっすぐ伸びた道を歩いていると猛烈に曲がりたくなる. それは人生においてもそう. グニッと曲がっちゃって今がある」

直線は無難すぎてつまらないと思ってきた.

が,今は,平凡で無難なのがいちばん幸せかもしれないという悟りを得ている.

これからは直線だ.

「子どもの頃,かくれんぼの最中に黙って家に帰った. すぅーっと」

悪気はなかった.

まっすぐな直線を歩けないという性格が当時から顕在だったということだ.

2.色々な設定編

「ホームレスも悪くないな,と思う. で,ダンボールハウスの構造にあれこれダメ出ししそう」

当たっている.

機能的なダンボールハウスの設計,建築,およびリフォームには自信がある.

根拠は別にない.

3.プログラム編

「たまに恋人が隣にいることを忘れる」

当たっている.

「もうちょっとかまって欲しい」と,その昔,言われたことがある. そのようなセリフは女性が言うものだと思っていたのでたまげた. 

が,今ひとりでいるのは,若い頃にそのような勝手な行為を取ってきたバチが当たっているのだと思っている.

今は反省している.

トリをかざりますのは,4.その他編.

「そういえば今日一日だれとも話さなかった. 『おやすみ』と自分につぶやいてみる. なんだかいい夢が見れそうだ. その夜,悪夢を見た」

何で知っているのだ.

...

こう書いてみると自分はやはり変人なのかもしれないと思えてきた. 

おやすみ.

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日本とアメリカの作文構造

大学1年生の英語ライティングを見ていて、いつも気になることがある。特に、「どう書くか」についてのスキーマが築かれていない春学期前半に、このことを強く感じる。

気になる問題というのは二つある。一つは、やたらめったら"and"を使い、「こうして、ああして、そいでもって、こうなって、ああなって、そいで結局こうなりました~。」というダラダラ型文章。 そして、もう一つは、「こんなことがあって、そいでもって、あんなこともあって、それで、それで、・・・ えーっと、結局何が言いたかったんでしたっけ??」という結論不明型文章。 

どうしてこういうことが起こるのか。理由は学生たちの過去の作文経験によるところが大きいと思う。つまり、日本人大学生は、中学・高校で書く活動をほとんどしてきていない。そして、自分の考えを言語化するトレーニングや、自分の意見を相手が分かるように論理的に説明する活動が授業ではあまり重視されていない。特に高校では、入試を突破することが目標になっているようなところがあって、授業ではアウトプットよりもインプットの方が重視されているような気がする。こうした状況では、伝えるべき内容(知識)は持っていても、それをどう伝えるかが分からない学生さんが増えるのは当然の結果なのかもしれない。

02021 なんていうことを感じる今日この頃だったのですが、同じ問題をズバリ指摘しているとっても面白い本を見つけました。『納得の構造 ―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(渡辺雅子著、東洋館出版社、2004)です。

同著の中で、渡辺先生は、ご自身が行った「日米大学生の作文比較」の結果について、次のように言及しています。

「…理由を説明する際に、日本人学生はまず過去のある時点に遡り、そこから起こった出来事を順番に述べるのに対して、アメリカ人学生は、結論に対して最も直接的な原因のみを述べるというのである。

たとえば、『あなたはなぜ英語(アメリカ人学生には日本語)を学ぶ決心をしたのか』という問いに対して、日本人学生は、『私が18歳のときに1ヶ月ホームステイをして、そしてホストファミリーと衣食住を共にして、そして… 』と長い体験談を語るのに対して、アメリカ人学生は、『日本の漫画文化をもっと学びたいと思ったから、日本語を取ることにしました。』と簡潔に述べて終わる。

この例から、日本人学生は理由を述べるのに、『物語』の枠組みを使い、複合するすべての理由を挙げる のに対して、アメリカ人学生は『要約』や『報告』の枠組みを使い、理由を一つだけ述べる 傾向があることが分かった。」

つまり、まとめると、「日本人学生は出来事の認識の仕方が時系列で、連続的に前へ進むものととらえる。一方、アメリカ人学生は、因果律で、結果から原因となる出来事を逆向きに探ることで全体を説明する」ということである。

うーん、なるほどーー。自分が今まさに関心を持っていた問題だっただけに、渡辺先生の研究報告にナットク!してしまいました。「アメリカ人のようになりなさい」と言っているわけではないのだけれども、「分かりやすい文章」とは、主張が先にあり、その理由なり根拠を後で説明していく「因果律」であると私は思う(特に学術的論文では)。もし、「自分の考えをどう並べていいかわからない」、「どうしたら論理的な文章が書けるようになるんだろう」、と悩んでいる学生さんがいたら、「因果律という文章構造もあるんだよ」と教えてあげることで、よりよい書き手への道が開けるんじゃないかと思う。ちょっと練習すれば、ダラダラ型文章や結論不明型文章も克服できる。(はずと思う)

学生さんの文章を見るようになって、satchyも少しづつ、emotionalな人間からlogicalな人間に成長しつつあります…。(って自分で言うのも何ですが。学生さんから学ぶことはほんとに多い!) ま、それはいいんだけど、「最近、理屈ぽくなった」、「そんな重箱の隅をつつくようなことばかり言わんでも、、、」なんてことを言われることが時々あり。。。(「最近くどくなった」ってことまで。。。)。なので、logicalであることが必要となるTPOをちゃんとわきまえなあかん、と思ってまーす(笑)。

↓ 『議論のレッスン』(福沢一吉著、NHK出版、2002)

もおすすめです。トュールミンの論証モデル((Toulmin's Model of Argumentation)にしたがって、分かりやすい言葉で論証の方法を説明しています。

議論のレッスン

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英語教育か国語教育か

今日は、言語教育について最近考えていることを語ります。。。

本年度より、新教育課程の「総合的な学習の時間」において、全国の公立小学校で英語を教えることが可能になったそうです。背景には、「国際化に対応する」とか、「日本人の英語下手を克服する」とか、「英語がうまくなれば経済が発展する」といった政府の思惑があるようです。

確かに、外国語の習得は、早く始めれば始めるほど良い、と言われているし、「臨界期説(critical period hypothesis)」といって、ある一定の年齢を過ぎてしまうと、外国語の完全な習得は難しくなる、なんていう理論もあります。しかし、最近の英語教育ブームを見ていると、最も大切な「国語」の能力の育成の方がないがしろにされているような気がして、何か本末転倒とちゃう?って思ってしまうんです。

英語の習得には、母語である国語の能力が大きくかかわっていると思う。母国語は、すべての知的活動の基礎であって、これが確立されていないと、思考の基盤が得られず、語るべき「内容」を持った人間が育たないような気がする。国際社会の中で主体的に生きていく日本人を育成するためには、もちろん「英語」も大事だけれど、その前に、自分自身や自国文化を誇りを持って語れるよう、日本人としてのルーツをしっかり備えておくことの方が、うんと大事だと思うのだ。

英語活動を導入すること自体に全面的に反対しているわけではないんだけれど、もしそのことが国語や他教科の圧縮につながるのであれば、問題だと思う。英語を学ぶことが、国語への関心も深め、国語を尊重する態度を育てることにつながれば、一番いいと思う。

M0304318401_1 4月3日のブログにも書いたんだけど、最近、藤原正彦先生の著作を数冊読んでいて、先生の「国語教育絶対論」に、深い感銘を受けています。特に、「国語は情緒を培う」という先生の持論には、先生の「この国を良くしていこう」という熱い思いがあふれていて、心に突き刺さってきます。

「進まざるを得ない灰色の道が、白と黒のどのあたりに位置するか、の判断は〈情緒〉による。〈論理〉は、十分な〈情緒〉があってはじめて有効となる。これの欠けた〈論理〉は、我々がしばしば目にする、単なる自己正当化に過ぎない。ここでいう〈情緒〉とは、喜怒哀楽のような原初的なものではない。もう少し高次のものである。それをたっぷり身につけるには、実体験だけでは決定的に足りない。実体験だけでは、時空を越えた世界を知ることができない。読書に頼らざるを得ない。まず国語なのである。

祖国とは国語高次の情緒とは何か。それは生得的にある情緒ではなく、教育により育まれ磨かれる情緒と言ってもよい。たとえば、自らの悲しみを悲しむのは原初的であるが、他人の悲しみを悲しむ、というのは高次の情緒である。」

この「情緒」は、一般的に考えられているよりも、はるかに重要なものではないだろうか。いくら論理的思考能力が優れていても、情緒が発達していなければ、利害得失ばかりを考え、そのためなら他人を傷つけることも厭わないような人間を作り出してしまうような気がする。だからこそ、小中学生の間に、この高次の「情緒」を、国語教育の中で育てていくことが大事だと思うのです。

023156790000 藤原正彦先生の『祖国とは国語』(新潮文庫)、『古風堂々数学者』(新潮社)、『国家の品格』(新潮新書)、ぜひぜひお読みになってみてください。

そして、「国語教育か英語教育か」について、みなさんの意見を聞かせていただきたいです。

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桜の花と富士山と日本人

Spring_002_2Spring_001_1Spring_003_1Spring_004_1朝8時、窓を開けると富士山がきれいに見えました。満開の桜の花が富士山のおかげで、いっそう美しさを増しています。(クリックすると大きな画像が見られます)

Spring_007西武新宿線、武蔵関駅近辺の桜並木です。出勤途中、あまりにもきれいなので、しばし立ち止まり写真撮影。今日はお天気もいいし、ほんとに気持ちいい~。

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むむ。ふと周りを見ると、カメラをかまえた男の子たちがあっちにもこっちにも。。。ここ武蔵関の桜並木は線路沿いということで、どうやら、電車男くんたちが集まるスポットらしい。電車男くんたちに交じって、シャッターチャンスを虎視眈々とねらいます。。。(はよ仕事行けや~)

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よっしゃーっ、電車きたーっ、シャッターチャンス!カシャっ

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 よっしゃー、もういっちょ、カシャっ              

 

なかなかいい感じで撮れて大満足。。。(ったく、出勤途中に何を遊んでるんやー) 来年の今頃は外国にいるし、もしかしたら、もうこの景色は一生見られないかもしれないなぁ。。。この写真、大事にとっておかねば。

祖国とは国語それにしても、富士山といい、桜の花といい、どうして、日本人の心をこんなに穏やかにしてくれるんでしょうね。 最近、藤原正彦先生の本をよく読んでいるのですが、先生によると、「自然への感受性や美を感じる心という点で、日本人に勝る国はない」のだそうです。かつて、日本に長く滞在した外国人たちも、一様にそのことを指摘しているのだそう。

たとえば、桜の花を見て、アメリカ人も"beautiful"やら"wonderful"やらと賞賛はするけれど、この場合、桜はアメリカ人にとって、ただ「眺める対象」に過ぎない。そこに、「儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息する」のは、日本人に特有な感性である、と藤原先生は述べています。

M0304318401 この自然に対する繊細な感受性が、日本人が古来から持つ「情緒」であり、伝統に由来する「形」である。論理や合理ばかりが強調されつつある昨今、もう一度、この「情緒」や「形」を見直していこう。「情緒」の欠けた「論理」は、単なる自己正当化に過ぎず、尊敬されることは絶対にない。。。というのが藤原先生の主張です。

世界を救うのは論理ではなく「情緒と形」と言い切る藤原先生の著書。日本人の使命と役割、そして品格について、改めて考えてみる機会を与えてくれると思います。

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広い視野。柔軟な生き方。

って、よく言われますけど、どういうことなんでしょうね。

ここで問題!

ある私立小学校の入試で出された問題です。次の四つのうち、仲間はずれはどれでしょう?

(1)ダイコン (2)ニンジン (3)ゴボウ (4)ハクサイ  

正解は。。。

(1)(2)(3)は、ぜんぶ根菜類(根っこの野菜)。(4)だけ葉っぱの野菜。だから、ハクサイが正解。

しかーし!

「広い視野」を身につけ、「柔軟な生き方」をするためには、そんなことで乗り切ってはいけなーいのである~!!

え? さっき正解いうたやんかーっ どないやっちゅーねんーっって? すみません。ここからが本題なんです。

最近ある本で勉強したんですが、みなさんは、「パラノ」 「スキゾ」 「ノマド」 ということばを聞いたことがありますか。え?なんか ゾンビっぽい って?いえいえ、フランスの哲学者 ジル・ドュルーズフェリックス・カターズの共著『アンチ・オディプス』の中で出てくる有名な言葉で、日本でも、1984年に、新語流行語大賞をとった言葉なんだそうです。浅田彰氏の『構造と力』の中で出てきて、当時、日本でも流行したんだそうです。

パラノ」とは、ひとつのことに執着する人間のこと。一方、「スキゾ」とは、ひとつのことにとらわれず、自由に生きる人間を指す。しかし、このような生き方は、両極端すぎる。そこで、その中間、つまり、スキゾを追い求めつつも行き過ぎず、決してパラノにもならない、それが「ノマド」となった。

これをたとえると、たとえば、システムにガチガチにしばられていて決して例外を認めない日本の官僚の方々なんかは、「パラノ」的といえるかもしれない(あくまで個人的な意見ですけど)。そして、こうしたシステムにとわられず、自由な発想で企業利益をあげたLivedoorの方々なんかが、「スキゾ」的なのかもしれない(自由すぎて捕まっちゃいましたけど)。

この極端すぎる「パラノ」「スキゾ」の両方のいい部分を取り上げながら、つまり、規則・慣習・礼節を大事にしながらも、自由な発想を大事にし、ひとつのものに様々な価値を持たせていける人、これが「ノマド」といえる。

そう、「ノマド」とは、ひとつの考えにとらわれない柔軟な生き方のことなのである。ドュルーズとガタリは、資本主義社会の生き方として、「ノマドとして生きること」を薦めている。

では、ここで、先ほどの入試問題に再チャレンジ!

次の四つのうち、仲間はずれはどれでしょう?

(1)ダイコン (2)ニンジン (3)ゴボウ (4)ハクサイ  

正解は。。。

(4)ハクサイ → ハクサイだけ葉っぱだから。 →正解だけど、当たり前すぎて、ちょい「パラノ」的。根っこか葉っぱかという基準以外で見ることができるかも。。。ちょっと見方を変えてみると。。。

(3)ゴボウ → ゴボウだけ3文字だから → 正解!

(4)ハクサイ → ハクサイだけ濁音が入っていないから → 正解!

こんなふうに、「ノマドの持つ広い視野と柔軟さ、を身につければ、口の達者な上司に打ち勝つことができたり、感じの悪い上司のいい部分を見つけてあげられるかもしれません。(ん?これは自分に対する励ましか?) また、世間の目や固定観念から逃れ、自分らしい人生を設計し、豊かな毎日を送れるようになるのではないでしょうか。

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上記クイズは、『なおかつお厚いのがお好き?』(フジテレビ出版: 2004)から引用しました。深夜番組で放送されていたらしく、一昨年、単行本化されたそう。哲学・思想が分かりやすい言葉で説明されていて、これを読んで、やっとクリアになったものがたくさんありました。おすすめです!

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マイナスイオンはからだにいい? ―常識を疑うこと―

マイナスイオン

このことばを聞いてみなさんが思い浮かべるものってなんでしょう。

「からだにいい」 「美容にいい」 「若返りそう」 「20代の肌を取り戻せそう」 「とにかくいっぱい吸い込みたい ずずーっ」 … (ん?後半になるにつれてめちゃ個人的見解になっているぞ)

なんて感じでしょうか?ヘアドライヤーから空気清浄機にいたるまで、さまざまな電機製品がマイナスイオン効果を謳っていて、何となく「マイナスイオン=からだにいい」と思い込んでいましたよね。

でも、マイナスイオンってなんでからだにいいんでしょう?

それに、マイナスイオンって具体的になんなのでしょう?

なんでプラスじゃなくてマイナスでないとあかんの?って素朴な疑問ももっちゃいます。いつごろからですかね、マイナスイオンがはやり出したのって?

答を先に言ってしまうと、マイナスイオンの実態は「不明」で、マイナスイオンがからだにいい、という仮説は専門家の間でも認められていないのだそうです(科学・医学専門誌にきちんとしたデータとともに発表された論文ではないのだそう)。実際、海外では、マイナスイオンがからだにいいという話はないのだそうです。

Kasetu_01 この話は、竹内薫著『99.9%は仮説 ―思い込みで判断しないための考え方―』の中から引用しました。

竹内先生の主張はこうです。

「われわれが"常識"としているものは"仮説"にすぎない」 「だから、世間でよく言われる常識をすべて鵜呑みにしてはいけない」 「先入観や固定観念にしばられずに、疑うこともしながら、柔軟に対応すること」

さまざまな情報があふれる昨今、何が真実で真実でないか判断するのはとても難しいこと。竹内先生の本を読んで、なるほどなーと学ぶところがたくさんありました。ワタクシも、はやりもの(特に美容関係)には疑いもせずにすぐに飛びついてしまう傾向があるので… マイナスイオンの空気清浄機も買おうとしてました、実は(苦笑)。

他にもいろいろな例がありました。たとえば、竹内先生のお母様は、竹内先生を母乳ではなく「スキムミルク」でお育てになったのだそうです。というのは、その当時(1960年代)は、「赤ちゃんは母乳ではなくスキムミルクで育てるのがよい」という医学仮説が存在していたからです。ところが、現在の免疫学では、「生まれたての乳児には母乳を与えた方がいい」ということが定説になっています。こんなふうに、白に見える仮説も、いつ黒に変わるか分からない、ということなんですね。

ちなみに、竹内先生によると、「クラシック音楽が胎教によい」というのも根拠のない仮説なのだそう。

今、アメリカで物議を醸し出している「進化論」論争も、まさしく「仮説はくつがえさえる」ということを表していると思います。

進化論とは、ご存知のとおり、「人類は、原始的な生物から40億年という長い年月をかかけて少しずつ進化していったもの」という、チャールズ・ダーウィンの説。

進化論は、たぶん日本では"常識"として学校で教えられていると思います。ところが、アメリカでは、この常識がくつがえされつつあるんですね。

対立仮説として現れたのが、「インテリジェント・デザイン説(知的設計説)」というもの。1999年にカリフォルニア大学で作られた仮説だそう。知的設計説とは、「宇宙のどこかにいる知的設計者がDNAを設計し、それが生物を作り出した」という説。

この知的設計説を、中学や高校で教えるべきか、という議論が今アメリカでは盛んに行われているのだそうです。というのは、あのブッシュさんが、「知的設計説を教えたほうがいい」ということを公の場で言ってしまったからで、この発言以来、アメリカは大騒ぎになっているんだそう。

結果、13歳から17歳の若者に、ダーウィンの進化論についてアンケート調査を行ったところ、ダーウィンの進化論を完全に知っているのはほんの37%だったという。他は、「わからない」「いくつかあるうちの仮説のひとつにすぎない」と答えたそう(2005年NATURE誌4月28日号)。アメリカの若者の間では、進化論が揺らぎ始めているんですね。

こう考えると、今、絶対と信じているものでも、いつかは絶対ではなくなるかもしれないってことなんですね。権威を鵜呑みにすることなく、他の可能性があるかも、他の考え方があるかも、と疑う姿勢が大事、ということですね。

竹内先生の本を読んで、からだにいいって言われて「黒酢」を飲んでたことがあるけど、よけい調子悪くなっちゃったことを思い出しました(笑)。吹き出物とかもでちゃって散々でしたよー。黒酢もマイナスイオンと同じで、ただの仮説にすぎなかったってことなんかなぁ。。。

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