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富山

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先週末,富山大学で開催されたライティング研究に関する国際学会 (ESBB 2018 Symposium on English Academic Writing in a Global World) に出席してきました.

富山を訪れるのは,実はこれが初めてです.


富山というと雪山のイメージしかなかったのですが,実際,イメージ通りの風景が広がっていました.


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初めてみる雪山は,思っていた以上にスケールが大きくて,目の前に広がる雪山に吸い込まれそうになりました.

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山,山,山...どこを見ても山. そうか,だから富山なのか. そんなことを考えたりしました.


それと,週末なのに街に人がいないことが気になりました. というか,好き勝手言い過ぎでしょうか(汗).

 

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そんな富山には,アルプスの美味しいお水を活かすためか,美味しい珈琲のお店がたくさんあるのだそうです.


学会会場の富山大学の近くに,koffe というコーヒーのお店があることが分かったので,学会の合間をぬってお散歩がてら足を運んでみました.


最近,ちょっとしたきっかけがあって,コーヒーの世界に魅了されつつあります.産地や焙煎の仕方などいろいろなファクターによって,味や風味,コクがいかようにも変化するところが深くて面白くてそして哲学的でもあって,もっとその世界を知りたくなっています.


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「青空」というさわやかな名前のブレンドを注文してみました.


一口飲むとさわやかな味わいが口の中に広がって,名前の通り,さわやかな青空が広がっていくような気がしました.


学会で,研究者仲間のI先生の講演を聴けたことに加えて,初めての富山で見たインパクトのある雪山,人がいない街(まだ言ってる),koffeの「青空」,いろいろな新しい経験ができました.


3月末. 新年度に切り替わる前に,こうした経験を通して気持ちを新たに,また新年度からも頑張ろうと思えました. 

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研究の意味

久しぶりに自分のブログを読み(放置状態!)、日々の出来事やその時の思いを書き留めておくことって大事だなあと思い(文字化しておかないと消えてしまう)、最近のことなどを書いてみることにした. 


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昨年の夏に, 某小学校でライティングのデータを取らせていただき、少しずつ分析を始めていたものの、なんだかんだ言い訳しつつ(「授業準備に追われて研究の時間が取れない」 「まとまった時間さえあれば書けるのに」など、困った研究者の典型的な言い訳)、論文としてまったく形にできていない状態がつづいていた.


2月中旬に学期末試験の採点と成績入力が終わり、ようやく頭が研究モードに切り替わったので、毎日少しずつ文章を書き、その過程でもう一度データに戻り、また文章を書き、またデータに戻り… という日々を過ごしている.  


研究というのは、決して直線的(linear)でなく、行きつ戻りつ(recursive)なプロセスだなあ... ということを感じる.  データを見て、分析して、書いて、データを見て、分析して、書いて.... グルグルグルグル回っている感じ. そして 同時に、孤独との戦いでもある. なので、研究には、「研究力」や「文章力」はもちろんのこと、孤独に打ち勝つだけの「精神的な強さ」も必要であると感じる.  加えて、執筆中についつい楽天やAmazonのサイトに行って、ネットショッピングをしてしまう悪い癖を直すべく、「集中力」も必要だと感じる (最近は、新しいキッチンマットを探索中... いけない いけない)


このようなrecursiveな日々の中、支えられている言葉がある. つまづいてしまった時、方向性を見失ってしまいそうになった時に思い出す言葉である.


「見えてはいるが 誰も見ていないものを見えるようにするのが 詩だ」


詩人の長田弘さんの言葉で、その著『開かれた言葉』のあとがきの冒頭で、書かれている言葉である.


この言葉を見たときに、はっとさせられた.  瞬時に思ったのは


「これって研究も同じだよなあ...」


ということだった. 


私のようなヘナチョコ学者の見解ですので間違っているかもしれないのですが、研究というのは、限りなく「見える化」を試みる過程のことだと思います.  一般の人には一応は見えているのだけれど、でも実は見えていないことって意外とたくさんあると思う. それを、様々な手段(=データ分析の手法)を使って「見える化」する.  これが研究者の仕事であり、責務であり、使命ではないかと.  研究者がしなければ、見えないままになってしまう現象というのはまだまだたくさんあるのだと思う.  「研究者」とか「大学教員」という職業がこの世の中に存在している意味は、ここにあるのではないかと.

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長田弘さんは、残念ながら2015年の5月に亡くなられた.  その後、朝日新聞の「折々のことば」というコラムで、このコラムの執筆者である哲学者の鷲田清一さんが、長田弘さんの言葉を次のように紹介していた.  とても印象に残ったので、切り抜いて手元に取ってある.


 視界には盲点があるだけでなく 見えているのに見ようとしないものがある.
 歴史のある時点では だれにも見えないものもおそらくあるだろう.
 だから 見ることにはそれなりの工夫が要る.
 他の人にはどう映っているかを こまやかに参照する必要もある.
 修業時代にふれたこのことば わたしにとっては哲学の定義でもある.


鷺沼清一さんの上記の言葉も、とても好きな言葉の一つなのだが、中でも 「見ることにはそれなりの工夫が要る」というところに、一研究者としてとても共感した. 


ここでの  「それなりの工夫」というのは、研究では、定量的に見るか、定性的に見るかという研究手法のことを指すと思う.  ある現象の全体像をできる限り詳細に見るためには、従属変数と説明変数の因果関係を数値で示すことも必要であるし、同時に、例えば外れ値が出たような場合、なぜ外れ値が出たのか?という問いとともに、個々の現象や社会的文脈との関わりを質的に深く切り込んでいくことも必要だと思う.  この二つのアプローチを either-orなものだと考える研究者もいるのですが、私自身は両者は補完的なもので、どちらも「見える化」のために大事なアプローチであると考えている.


ここ数日、小学生が書いた英語の文章の結束性を調べるために、文章をT-unitに分割して、等位接続詞の頻度をカウントして...といった作業をしているのですが、一日中この作業をしていると 「あれ? いったいなんのためにこんなことをしているのでしたっけ...?」という考えがふと頭をよぎってしまうことがないわけではありません(そして ついつい楽天やAmazonのサイトに... いけない いけない). 


こんなときに長田弘さんの言葉を思い出すようにしています. 今日もまた楽天やAmazonのサイトにキッチンマットを探しにいきそうになったものですから、自分を鼓舞すべく、長田弘さんの言葉をここに書き留めたのでした. 

研究とは「見える化」すること.

がんばれよ.


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新しく、ガジュマルが仲間入りしました. 

ガジュマルって なんだか忍者ハットリくんに出て来そうな感じがしましたが 獅子丸ってのがいたからですね. というか例が古くて世代を感じてしまいますね. ふふ.

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