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Using models in teaching L2 writing

外国語でのライティング指導において学習者に「モデル」を示すことは効果があるのだろうか.

先行研究では意見が分かれる. 「モデル」を示すことについての反対意見は,「モデルを示すことは学習者に一つの型(template)を押しつけることにつながる可能性があり,そのことによって学習者が自ら考える力や創造力が育たなくなる」という教育学的立場からのものや,「書き言葉のテクストというのは状況や目的や読み手によって変わるものであり,モデルを提示することでテクストの多様性の意味が失われる」というコンポジション研究の立場からのものなどがある.

これらの反対意見に対して,「モデル」を示すことには賛成意見もある. しかし,これは「条件付き」の賛成である. 条件とは二つある. 一つは「提示するモデルは2つ以上(multiple models)であること」. 二つ目は,「『同じジャンルの複数のモデルが目的や読み手によってどう異なるか』を書き手本人に分析させる活動を取り入れること」である. この二つの条件をクリアすれば,モデルは有効ではないか,というのが賛成意見の主張である. そして,モデル賛成意見の多くは,あるコミュニティーに参加したばかりの(たとえばアメリカの大学に到着したばかりの日本人交換留学生)初級の書き手(novice writers)に焦点を当てている場合が多い. スキーマが十分に構築されていない初級の書き手に「モデル」を示すことは,ある特定のジャンルの「特徴(features)」や「慣例(conventions)」や「ルール(rules)」を明示的に伝えることになり,書き手がコミュニティーに参加する第一歩としてモデルは有効である,というものである. この立場を取るのはジャンル・アプローチ(genre approach)とかジャンル研究の人々だ. わたしはこちらの立場である.

先日,このモデルの有効性に関する論文を読んで,改めてこの問題について考えさせられた. その論文とは,

Macbeth, K. P. (2009). Deliberate false provisions: The use and usefulness of models in learning academic writing. Journal of Second Language Writing, 19, 33-48.

である.

この論文でMacbethは「モデルを示すことは負の影響がある」と主張し,学習者が実際に書いた文章を例に挙げて,モデルの負の影響を"false provisions"として紹介している.

興味深かったのは,Macbethの分析が社会学理論をバックボーンにしていることだ. ブルーマーの「感受的概念(sensitizing concepts)」(シンボリック相互理論)を使って,ライティング指導におけるモデルの非有効性について説明している. 

ブルーマーによると,私たちが対象をとらえるとき,その多くは「定義的概念(definitive concepts)」ではなく「感受的概念(sensitizing concepts)」に基づく. つまり,すでにあるルールに事例をあてはめていくのではなく,事例を感受してその個別性を理解していく,ということである. たとえば,おいしいラーメンのお店を開業するにあたっておいしいラーメンを開発しようとするとき,すでに確立した「おいしいラーメンの作り方」(=定義的概念)に忠実に従うことよりも,まず,いろいろなお店で「おいしいラーメン」を食べながら,麺やスープや具をリサーチし,「おいしいラーメンの個別性」を感じ取る(=感受的概念)ことが大事だということだろう. 「言葉はいらない,感じ取れ」というやつだろうか.

このブルーマーの「感受的概念」がライティング能力育成という状況にもあてはまる,とMacbethは主張している. そもそも,「よい文章」とは「よいラーメン」と同じで一つに絞ることはできない. いつ誰にどこで何のために書くかというコンテクストによって「よい文章」は大きく変化する. 従って,「よいラーメン」の個別性を理解するのと同様に,「よい文章」だってその個別性をちゃんと認識するべきなのである. これがMacbethの「モデルは負の影響がある」という主張の根拠である.

しかし,もしMacbethが主張するようにライティングが「感じ取る」ものなのだとすれば,ライティングの教師の役割とはどうあるべきなのだろうか. 「先生は何も教えません.さあ君たち,感じ取れー感じ取るのじゃー」って言うのだろうか. (そんなわけはないけど)

また,ライティング能力が感受的概念と結びついているというのであれば,だからこそ,複数のモデルを示すことで感受的概念が促進される,と言うことはできないだろうか. 塩ラーメンとみそラーメンと豚骨ラーメンという複数のラーメンを比較してみることで,つまり個別性を理解することで,自分にとってのおいしいラーメンとは何かがそこで初めて「感じ取れる」のではないかと思うのである.

「感じ取る」ことの重要性は理解しつつも,初めて外国語でパラグララフレベルの文章を書こうとしている人々には,ある程度の「定義的概念」が必要ではないかと私は考えている. たとえば,アカデミック・ライティングの場合だと,「Toulminの論証モデル(Toulmin Model of Argument)」は,読み手を納得させる論理で構築された文章を書くための定義的概念として有効ではないかと思われる. 他に,たとえば,依頼メールなどの場合だと,「状況によって丁寧度を調節する("Would you mind ...?"や"I was wondering if...?など)」というルールは,定義的概念として明示的に説明されないと初級の書き手が「感じ取る」ことは難しいのではないかと思われる.

そもそも,「対象を理解する」という極めて抽象的な概念を,「感受的概念」vs.「定義的概念」という二項対立で説明することにもちょっと無理があるような気がしてならない. この二つの概念は"interrelated"の関係にあるような気がする. 言葉なしに思考を深めることはできないし,思考がなければ言葉を発達させることもできない. 人間の能力の発達とはそういうものじゃないかと私は思う.

世間はワールドカップで盛り上がっているというのに,Macbeth(2009)の論文について語っている金曜の夜. そういえば「マックベス」という名前ってちょっとかっこいいじゃないかとくだらないことを「感じ取った」わたくしである. 

ところで「第二言語ライティング勉強会」なるものを立ち上げるというのはどうでしょうか.

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ありあけのハーバー

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関東に来てから気になっているテレビCMの一つに,横浜名菓「ありあけのハーバー」がある.

「関東に来てから気になっている」理由は2つある. まず1つ目は,このCMが関東地区限定で,私の出身地である神戸では見たことがなかったことだ. この銘菓の存在自体を知らなかっただけにCMそのものも新鮮なのである. 「その土地の銘菓をテレビCMで宣伝する」ということになると,関西地区でまず思い浮かぶのは『551の蓬莱』である. というか銘菓じゃなくて豚まんでした. それはさておき『551の蓬莱』のCMでは,「551があるとき」と「551がないとき」で家族のしあわせ度がいかに異なるかが「動と静」の絶妙なコントラストで描かれている. 一方,ここ関東地区における『ありあけのハーバー』のCMは,「ハーバー持っておばあちゃんのとこ行こ」という横浜在住のチビッコの声が一言流れるだけという実にシンプルなプロットになっている. 「ありあけのハーバーがあるとき」と「ありあけのハーバーがないとき」という『551の蓬莱』に見られる動と静のコントラストという手法を使えばもっと視聴者の心をつかめるような気がするが,関東ではこういうシンプルなもののほうが受けがいいのかもしれない. というかパクリでしょう. そのシンプルさゆえに,おばあちゃんのところに行く→ありあけのハーバーを持参しなくてはという連鎖を視聴者に促し,それが結果的に潜在顧客の醸成へとつながっているのかもしれない. なんか適当なCM分析をしている. 

そして2つ目の理由は,このコマーシャルで子供が歌っている「ありあけのお〜♩ハ〜ああバ〜♫」という歌が,決して上手とは言えないにも関わらず,一度聞いてしまうとずっと頭の中に残り続ける独特なサウンドを醸し出していることだ. 「ありあけのお〜♩」の「お〜」の部分で音程が上がり,「ハ〜ああバ〜♫」の「ああ」の部分で突然音程が下がったかと思ったらまた突然「バ〜」で音程が挙るのである. この「お〜」と「ああ」と「バ〜」が織りなすサウンドが,視聴者の頭の中に残り続ける要因になっており,それが結果的に商品の認知促進という効果へつながっているのかもしれない. なんか勝手なCM分析をしている. 

こんなどうでもいい極めて適当なCM分析をしてみたのは,今日学生さんに,ありあけの「黒船ハーバー」をいただいたからである. ありあけのハーバーのチョコレート味は「黒船ハーバー」っていうのだそうだ. ちなみに白餡が入ったほうのハーバーは「横濱ハーバー」というらしい. アナロジーで行くと,チョコレート味が「黒船ハーバー」なら,白餡は「白船ハーバー」でなければならないと思う. さらに,「黒船」と「横濱」は区分の異なるものを同列に並べているという点で,論理学の観点から言うと,カテゴリー・ミステイクを犯しているという指摘を受ける可能性がある. しかしながら,そんな論理的誤謬に対する指摘も,「ありあけのお〜♩ハ〜ああバ〜♫」というダイナミックなサウンドの前では何の威力も示せないのだろう. その前に「あの歌のどこがダイナミックなの?」という指摘を受けるかもしれませんが. というか関西地区にお住まいの方々にはなんのこっちゃさっぱりわからんエントリーになってしまいました.

ところで,学生さんにいただいた「黒船ハーバー」はその名の通り,色は真っ黒であり,形は船の形でした. ここまで黒くしちゃうの?と問いたくなるくらいの黒さ加減に,ありあけハーバーさんのハンパない力の入れようを見た気がした. 一口食べると,カカオの濃厚な風味が広がり,ペリー提督横浜上陸の図が鮮やかに脳裏に蘇りました. カカオとペリーのつながりがよく分かりせんが. というか見たんかい. なんか適当なことばかり言っている.

黒船ハーバーはとてもおいしかったので,今度おばあちゃんのところに行くときには必ず持参したいと思いました. 

やはりCM効果はかなりあるみたいだ.

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リセットと勇気

ひさしぶりの再会とひさしぶりの外食とひさしぶりの楽しい会話で,

疲れきって動きが止まりかけていた心と体をリセットすることができた土曜日.

フランス・リヨンで修行したというマッサさんのフランス家庭料理のお店へ. 

ちなみに「マッサ」という名前は本名の政之(マサユキ)から来ているらしい. マサユキの「マサ」の間に促音の「ッ」を挿入するだけでなんとなく響きがリヨンぽくなるから不思議だ. マッサッサッサー. あれ. 「政之さんの煮込みハンバーグのお店」というより「マッサさんの煮込みハンバーグのお店」といったほうがなんとなく洗練されて聞こえる. そんなこと言ったら政之さんが洗練されてないみたいで失礼だろ. マッサさんも政之さんも同一人物だから問題はないだろうが. よくわからないが.

それはさておき,今回マッサさんが作ってくれたお料理は次の3品である. 


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じゃがいもとほうれんそうのキッシュ.

キッシュという食べ物はなぜゆえにこんなのおいしいのだろう.

これでもかっていうくらいじゃがいもが入っていてマッサさんのイモに対する熱意が伝わってきた. どんな熱意や.

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煮込みハンバーグ. 

この煮込みハンバーグは本当においしい.
   
家庭的であたたかくてマッサさんの気持ちがこもっていると思った.

また食べたくなる一品だ.

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アップルパイと黒ゴマのプリン.

デコレーションに使われている白いフワッとした雲みたいなものは飴細工らしい. これがあるだけでデザートプレート全体がとても優雅になる. さすがリヨン仕込みのマッサさんのセンスだ. 無駄に小さい「ッ」を名前に入れてるわけじゃない.

18時にお店に入って,お店を出たのが22時半.

楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまう.

新しいことを始めようとしている人の話,マッサさんのフランス修行の話などを聞いていると,自分の背中をドンッと押されているような気持ちになってきた.

このごろ気持ちが内向きになりがちだった. 頭の中でやったほうがいいと分かっていても前に踏み出せずにいた. なぜなら,新しいことを始めたり,次のステップに進んだりするためには「勇気」がいるからだ. 勇気ってとてつもなく大きなエネルギーがいる. 最近の自分の心と体の中にはそんなエネルギーがもはや残されていなかったのだ.

一歩を踏み出す勇気を二人からもらえた気がする.

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悩み

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ベランダで育てているパンジーにアブラムシが付き始めた.

小さい体でじっとしているように見せかけて実はしっかり植物に害を与えている根性の悪さが許せない. この世でいちばんこわいものがテントウムシなくせに. 何も考えていないように見せかけて実は美しく一列に並ぶ能力を持ち合わせているところにも性格の悪さを感じる. テントウムシ連れてくるぞ. さらに体が緑色なのが許せない. 緑は私の好きな色だからだ. 名前に「緑」とか「グリーン」が入らなかったことだけが幸いである. しょせんはアブラムシなのだ. アブラのムシだ. 

きもちわるくなってきた.

テントウムシを連れてこなくては.

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6月

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6月.

夏が近づいてきたので,ネイルカラーを涼しげなブルーにしてみました.

大学生協のおばさま方に「んまーきれー」と褒めていただきましたが,ある男子学生からは,「先生,爪の先に青タンができていますよ」とコメントされしばいたろかと思いました.  

しかし,よく見てみると青タンに見えないこともないと思えてきた. いたいたしすぎるやろー. 学生の思わぬ描写能力にはしばしば驚かされることがある. というか「描写能力」というほど大げさなものでもないかもしれないが. 

毎日毎日,授業準備と課題の添削に追われ,その合間に自分の勉強や論文の執筆をして,あっという間に一日が終わってしまう日々が続いていて,そんな中で唯一心を落ち着かせることができる場所が月に一回訪れるネイルサロンというふうになってきている. 指先がきれいになると,しゃんとした気持ちになるのだ. しゃんしゃん. たとえ青タンと言われても. 

それにしても時間が過ぎるのは本当に早い. 毎年6月になると,あれから4年が過ぎたのだなという気持ちになる. 

あのときあの選択をしたことでそれまで知らなかったことを自分は知ることができたが,その反面,あのときあの選択をしたことで,つまり,自分がそれまで知らなかったことを知ってしまったことで,4年後の現在までそのことがずっと自分の心を縛り続けている. 4年前の6月のあの選択は正しかったと思うし,でも正しくなかったのかもしれないとも思う. しかし,あのときああしていなかったら…という仮定法過去完了の問いは全く無意味なのだということも分かっている. 時間は後戻りはできなくて,前に前に進んでいくしかないものなので,だから自分も前に前に進んでいくしかないのだから.

4年後の6月の自分はどうなっているのだろう.

今と同じようなことを相変わらず言い続けていない人になっていたいし,ネイルサロン以外に心が落ち着く場所を見つけていたい.

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