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学会前

来週はいよいよ学会発表で,なんとなく落ち着かない毎日を過ごしている.

この一年で行ったempirical studyについて発表できるのは楽しみである反面,やっぱり緊張もする. 今回はsession chairもしなければならないので,緊張が倍になる. 

誰の目にも映らないところで静かにじっと暮らしていることができればそれはどんなに安心を与えてくれることだろうと思う. でも,その安心さは,自分からは誰にも何にも触れられない,つまり誰からも何からも何も得られない,ということを同時に意味するから,やっぱりそれなら,安心よりも緊張するほうを選んだほうがよいような気がする. だから今のこの落ち着かない日々も受け入れて,言いようのない緊張も乗り越えていくしかないのだろう.

そんなわけで何か落ち着かないのだが,ハワイにいた頃と比べると,今は授業でトークをすることで気持ちを発散できているような気がする. 先日の授業では,国子君のお母さんの名前が「国子邦子(クニコクニコ)」さんという話をして学生の笑いを取ったりした. すると,学生の一人が,「私のお母さんのお友達でもっとすごい名前の人がいますよ」というので,どんな名前なのかたずねてみたら,その名は

「五味弘江(ゴミひろえ)さん」

というのだそうだ. それは確かにすごいですね. 環境に意識高まるこの時代にぴったりなお名前だと思います. というかおもしろいです.  

0016_2 そんなどうでもいいくだらない話が落ち着かない心にやすらぎを与えてくれている. いや,どうでもいいくだらない話なんて言ったら,五味弘江さんに失礼である. 心にやすらぎを与えてくれた五味弘江さんに感謝しなければならない. 

 そして心に潤いを与えるために,ネイルアートを新しくしてもらった. 薄いピンクにゴールドのラメを入れてもらう. ピカピカしていてかわいい. 

 今日も発表の練習をしなければならないけど,何か落ち着かなくてブログを書いてみたりしている. 大学はこの週末が学園祭で,キャンパスに軒を連ねる屋台からいいにおいが漂ってくる. YOSAKOIソーラン同好会のホクホクジャガバターでも買いに行きますかね.

なんか地味な週末.

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autumn fashion

Oct2_006  日毎に秋色が深まっていく今日この頃. 

 ブーツの季節となりました.

 2006年,2007年,2008年の今頃は,ハワイでTシャツとジーンズとサンダルで過ごしていたので,2009年,3年ぶりに秋ファッションを楽しめることがうれしくて仕方ない.

 早速,黒のブーツに合わせる格子柄ジャケットと白のパンツを購入した. 

 うれしくて写真撮影をしてしまう. これ着て鎌倉の大仏とか見に行きたいなとか思ったり. 大仏かい. 鎌倉は一度行ってみたいです. 

ハワイで一年中Tシャツとジーンズというのは楽でよかったけれど,四季がある国で季節ごとに衣替えをし,季節に合わせたファッションを楽しむというのが体に染み付いているので,こうして格子柄のジャケットと白パンツと黒ブーツを履いて秋色深まる街路樹の下を歩けるのはやっぱりしあわせなことだと思います.

でも,冬が近づいていることを感じさせる肌寒い風が吹きつけると,ハワイの夕暮れ時に吹く心地いい風を懐かしく思い出したりもします. 

もうひとつの言語やもうひとつの文化を知るということは,もうひとつの考え方やもうひとつの視点を身につけるということなのだと,久しぶりの秋色深まる日本で改めて感じたりする.

Aug31_013

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古茶や体育祭など

July13_002 教員室に大きな封筒が置いてあって,宛名に「古茶先生へ」と書かれていたのだが,この「古茶」というお名前は,「フルチャ」と読むのかそれとも「コチャ」と読むのかあるいは他に読み方があるのか(フルサ,コサなど)とても気になってしまった. こういうお名前の先生は同じ学部にはいないのでたぶん非常勤の先生なのだろう. それにしてもこの「古茶」の読み方なのだが,「フルチャ」の場合,意味としては「古いお茶」ということになり,それならば「新茶(シンチャ)」の方がいいんじゃない?ということになるし,「コチャ」の場合,「コラー!」と怒鳴りつける代わりに「コチャー!」とこぶしを上げて怒るとちょっぴりキュートなイメージを作り出せそうな気がする. コチャー! なんだかよく分かりませんが. ともかく,この「古茶先生」のことが頭から離れなかったので,「古茶」の読みに関する疑問を解決すべく,授業の導入の際に黒板に大きく「古茶先生」と板書した上で,学生たちに「あなたはフルチャだと思いますか,それともコチャだと思いますか?」という質問を投げかけてみた. 「どっちでもいいんじゃないですか?」という顔をしていた学生もいたけれど,フルチャだろう,いやコチャだよ,という白熱した議論が展開されたグループもあった. 何だかよく分かりませんが. というかどんな導入やって感じです. 名前に関連した持ちネタでは他に国子(クニコ)君の話がある. 国子(クニコ)君という人は京都に住んでいるわたしのお友達なのだが,国子(クニコ)君のお母さんのお名前は邦子(クニコ)というのだそうだ. そう,国子邦子(クニコクニコ)である. 入国カードにはKuniko Kunikoと書くのである. 人の名前をネタにしたらだめだけど国子君のお母さんの名前おもしろいです. クニコクニコ. というか,そんなどうでもいい小話をしているうちに時間がなくなってしまい,後半はあわてて授業を進めるはめになってしまった. コチャー.

大学は2週間後に学園祭と体育祭と控え,学生たちは「フルチャ」とか「コチャ」とか「クニコクニコ」とかどうでもいい小話にはつきあっていられませんという感じで,毎日お祭り準備にあけくれているようである. 企画委員のような仕事をしている学生さんの中には徹夜で仕事をしているという人もいたりして,ほとんど寝起きの顔で1限の授業に現われ,「ムンクの叫び」みたいな顔をして頻繁に大あくびをしている. その大あくびに向かって「コチャー!」とこぶしを上げて怒ったらそのムンク学生の表情はどのように変化するかという地味なシミュレーションを行いつつ,コチャの効果について考察してみたりしている. しかし,こういう大学行事の企画運営の仕事を学生の間にしておくということは,大変貴重な経験になることと思う. たとえときどきムンクの叫び顔になるとしても. コチャー. 

そんな学園祭・体育祭に向けて盛り上がる大学の中で,自分はというと知らないうちに体育祭委員会のメンバーに加えられており,どうやらイベントにも参加しなければならないようである. 体育祭委員ということで,メンバーの先生方を見てみると,ボクシング部とかラグビー部とか柔道部とかの体育会系クラブの顧問をしているような比較的体格のいい男性の先生が大半を占めているのだが,そんな中になぜわたしのような人が入れられているのかが不思議で仕方がない. というか浮きまくりだ. 体育祭当日はスニーカーを履いてきてください,とか言われたので何か嫌な予感がしたのだが,案の定,よければ学生と一緒に競技に参加してください,とか言われてしまう. 競技は,大玉ころがしとか綱引きとかいう. 絶対ありえない. コチャー!

大体,なぜこの歳になって「大玉」を転がさなければならないのだ. オオダマですよ. 赤と白のオオダマですよ. 小学生の頃は何の疑問も持たずに赤い大玉やら白い大玉やらをコロコロコロコロ転がして走っていたけれども,あれは大人になってから分析すると実に奇妙な競技であると思う. というかなんで大玉(オオダマ)なのだ,といいたい. 小玉(コダマ)だっていいじゃないかと思う. それだと玉入れになるか. というかなんで赤組と白組なのだ,ともいいたい. 月組と星組でもいいじゃんと思う. 宝塚歌劇かい. ついでに,なんで赤帽と白帽をかぶらないといけないのだ,ともいいたい. あのリバーシブル・タイプの日本独自のデザインの帽子だ. ちゃんとゴムをしないと先生に叱られてしまうあの帽子だ. 2週間後の体育祭での大玉ころがしの際に帽子の着用まで強要されてしまったらほんとに泣きたくなる. ちゃんとゴムもしてね. 赤帽をかぶって赤い大玉を転がしている自分の姿を想像したら泣きたくなってしまう. というかおもろすぎるやろ. ほらそこで笑っているあなた. コチャー! 

ちょっと毎日が忙しすぎるような気がする. 毎晩この時間になると何かに搾り取られてしまったかのごとく放心状態になっている. 放心というのは「心が放たれる」という意味だが,心が放たれると,古茶とか国子邦子さんとか結構どうでもいい話がすごくおもしろく思えてくる. 自分はきっとこの大学内ではいちばんおもしろい人物に違いないとかいう自信が芽生えてきてしまったりする. というか自分は一体何を目指しているのだろうかという気がしないでもないが,どんなにかっこつけたって所詮自分は典型的なお笑い好き関西人なのである. ちなみにこの頃はジャルジャルのファンなわたくしである. たぶん関東にいて時々苦しくなるのは,わたしが典型的な関西人であることが遠因としてあるのかもしれない. ということでエンターテイナーを目指すべく,体育祭でも帽子をかぶって(ゴムもね)大玉を転がしてくることにしよう. クニコクニコー.

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Kudos

低空飛行が長く続いていたが,ひさしぶりに自分の研究成果を認めてもらえるという出来事が起こり,ハワイ大学のオルテガ先生はじめ,コミティの先生方から

"Kudos to satchy for this achievement."

というメッセージを送っていただく.

Sep5_025 "Kudos"という言葉は,ハワイ大学に留学してから知った言葉だ. 「賞賛」とか「栄誉」という意味があり,"Congratulations"とほぼ同じ意味で使われるようである. 

 ハワイ大学SLSという学部は,ファカルティと学生が地位の壁を超えて情報を共にシェアしようというデモクラティックな雰囲気があり,個人レベルのニュースなどもメーリングリストに乗せて全学生に向けて発信されている. そのメールの中で,誰かが"Kudos"という言葉で業績を称えられているのを何度となく目にしてきた. 自分がそんな言葉をかけてもらえる日が来るとはそのときは思いもしなかった. 今でも何だか自分のことではないような気がする. 低空飛行が長く続きすぎたからなのかもしれない. 

オルテガ先生がいつになく異様に喜んでくださっている様子を見ても,何だか自分に向けられたものではないような気がする. でも先生が喜んでくださるのはうれしい. 時間をかけて丁寧に指導してもらっても,先生の期待に応えられるような業績を出せなかったので,先生がMoore Hall5階の暗くて狭い研究室の中で時折見せるモナリザの微笑がとても恐ろしく感じられることがあった. カモーン. だから業績を認めてもらえたことよりも,先生に喜んでもらえたことがうれしいのである. 親不孝ムスメがようやく親孝行ができたような気持ちだ. 

「前に進んでいくこと」ってなんて大変なんだろうとこの頃よく思う.

オルテガ先生のもとで研究を始めて,オルテガ先生に"Kudos"と言っていただける業績を出すのに3年かかった. 次に先生から"Kudos"の言葉をかけていただけるのは,また3年先かもしれないし,5年先かもしれないし,10年先かもしれない. 「前に進んでいくこと」は,時間がかかる.

でも,自分のしていることがエンド(end)に向かっているのであれば,それでいいのかもしれない,という気もする. 

自分のしていることがミーンズ(means)になっているのであれば.

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秋学期

秋学期一週目が終わった.

秋学期は,月・火・水・木と毎日2コマずつ授業が入っている. 毎日違う科目が入っているので,授業準備が追いつかず,今週は授業直前ぎりぎりまで教材を作り印刷室まで猛ダッシュするというような日が続いた. こういう時に限って印刷機のインクが切れたりして,インク切れるなやーぼけーと言って印刷機を蹴り飛ばしたくなったりした. 印刷機には何の落ち度もないのですが. もちろん蹴ってないけど. そして,空っぽになったインクボトルを砲丸投げの選手のごとくヤーって遠くに投げ飛ばしたくなったりした. インクボトルには何の落ち度もないのですが. もちろん投げなかったけど. こんなことでイライラしてはいけませんね. これからはもっと計画的にやらなくてはと反省した. ヤーっ.

Oct2_004 秋学期は,理系学生のために自然科学系の英文記事を読んでいく授業を2クラス担当している. たとえば,「選択英語2」という授業では,来週から「遺伝子操作」の英文記事を読むことになっている. 導入として,今週は,"GATTACA(ガタカ)"という「遺伝子工学が発展した近未来」を描いた映画を学生に観てもらった. 選択英語という授業は,英語力を伸ばすだけではなく,理科系の学生さんが教養を深め視野を広げるという目的も担っているので,英語そのものに加えて記事の内容面も教員がしっかり話ができなければならない. というかしっかり話ができているのか疑問だが. なにしろ教員本人が教養を深めなくてはいけない人なのである. さらにわたしは文系なので下手をすると自然科学系の内容に関しては学生の方がよく知っていたりすることもある. したがって,この授業のためにまず自分が勉強をし,それからハンドアウトやパワーポイントを作るという行程で,かなり時間をかけて準備をしている. 今週は「遺伝子操作」についての英文記事ということで,何かいい資料がないかなと探していたのだが,先日,「遺伝子の部屋」というウェブサイト(広島大学のNaoki Sakamoto先生が作成したもののようである)を見つけた. このサイトは,助手の質問に博士が「うむ,それはこういうことだよ」と答える形式で,一つ一つの事項について非常に分かりやすく解説されており,基礎から応用まで徐々に理解を深められる構成になっている. DNAの二重螺旋構造のしくみとかその重要性などについて今になってようやく理解できたような気がする. これは使えるということで先週からこちらのサイトで遺伝子操作について勉強している. というか,わたしは一体何の先生なのでしょうかねって思わないこともないけれど. ちなみにこのサイトのタイトル,「遺伝子の部屋」の「遺伝子」は「いでん」って読むらしい. いでんこの部屋. いでん子さーん. 似たようなタイトルの番組をもじろうとしたのだろうけれど,ちょっとムリヤリって感じがする. るーるるる,るるる,るーるる. てつこじゃなくていでんこだよ. ヤーッ.

今学期は会議も多い. その会議が別のキャンパスで行われることになっているため,月に2回,授業が終わったあとに電車に乗ってそのキャンパスまで行かなくてはならない. 今週は火曜日の授業の後に行ってきた. 3時間くらい拘束されたが,そんなに時間をかける意味があるのかどうか疑問に感じる内容だった. 議題に関しては,絶対に変えたほうがいいことはおそらくみんな分かっているはずなのだが,変えたほうがいいという一言を言ってしまったら,自分がその責任を負わなければいけなくなるので,みんなあえてだまっているという感じ. これ以上自分の仕事を増やしたくないし,自分で自分の首を絞めるようなことは誰もしたくないというのはよく分かる. でも,何かとても変な感じがする. そして何か変な感じがすると思いつつ自分自身もその"one of them"になっていくのである. 長い間続いてきたことを「改革」するって本当に大変なことなんだなと痛感する. 

Oct2_002 こんなふうにあわただしく毎日毎日が過ぎていき,自分はこれから一体どうなるのだろうかという不安がふっと襲ってくるときがある. たとえば,夜仕事を終えて大学を出たところで,秋のにおいのする密度の濃い風がぶわっと吹き寄せてきた時に,そういう不安を全身で感じてしまう. 授業準備のために「遺伝子」の勉強をしなくてはならない環境は,学生と一緒に自分の教養も深められるとポジティブにとらえられる反面,果たしてそういうことが自分のキャリアにつながるのか,その時間をもっと別のことに使うべきではないのかという疑問もわいてきてしまう. あまり長くこの場所にいてはいけないと思うが,他に自分を受け入れてくれる場所があるのかというと,自信はない. それよりもまず博士論文を書き上げて学位を取らなければどこにも動きようがないが,完成までにあと1年か2年はかかりそうであることを考えると,まだまだ自分との闘いの日々が続くのだなと小さなため息をついてしまう. 

「3連休は行楽日和です」というTVから聞こえてくるアンカーの快活な声と,夕方5時になると町のどこかから聴こえてくる『夕焼け小焼け』の温かなメロディが,自分だけが世間から孤立しているような感覚を心に刻み付ける. とてもさみしい.

そんな秋学期の一週目.

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typhoon 18th

00051_3  The 18th typhoon is coming close. タイフーン.

 朝7時の時点で小田急線が不通となった場合は午前中の授業は休講という連絡だったが,朝7時の時点で小田急は通常通り運行ということだったので,1限の授業に間に合うように,いつもどおり7時25分発の電車に乗ったら,乗ったとたんに「運行見合わせ」のアナウンスが入る. おーい. 風速が基準値を超えたため,途中の大きな川をまたがる橋を渡れなくなったとのこと. かわー.

 それから電車の中で缶詰状態になること1時間半. 立ちっ放しなので足が痛くなるし,強風が吹き込んでくるので車内は寒いし,なんかいじめにあっているみたいな気がした. タイフーン.

それからようやく折り返し運転が始まり,目的地に近いところまで走ってくれるというので,とりあえず近くまで行くことにする. もともと急行だった電車は各駅停車となり,各駅で待ちくたびれている人々をねこそぎピックアップしていくので,車両が破裂しそうなくらいの満杯状態となる. くるしー.

そんなこんなで何とか大学にたどり着いたときには,家を出てから3時間が経過していた. バスを降りたところで近くの山から飛んできたと思われる巨大な木の枝に直撃されそうになり,恐れおののく. こんな悲惨な朝は久しぶりに経験した. 

先ほど学生課からオフィスに電話があり,「午前中は休講になります」ということだった. おそい.

午後の授業も休講にするのかどうかただいま検討中とのこと.

今日はこのままゆっくりしていたい気持ち.

タイフーンってタイへーンなんですね. あれれ.

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こころ

Oct2_001 読書の秋にすばらしい作品に出会ってしまった.

 夏目漱石の『こころ』だ.

 少し読んでみて,その文章の格調高さと美しさに驚く. 

 一つ一つの言葉が,そして一文一文がじわじわと心に染み渡ってくる.  

言葉や文章が情報を伝達する以上の意味を持っているという大切なことに改めて気づかされる. 

今日,特に心を動かされたのは,「私」と「先生」が「若葉に鎖されたようにこんもりした小高い」丘を散歩していたときの次の情景だ.

『芍薬(しゃくやく)も十坪あまり一面に植えつけられていたが,まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった. この芍薬畑のそばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た. 私はそのあまった端の方に腰をおろして煙草を吹かした. 先生は蒼い透き通るような空を見ていた. 私は私を包む若葉の色に心を奪われていた. その若葉の色をよくよく眺めると,一々違っていた. 同じ楓の樹でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった. 細い杉苗の頂に投げかぶせてあった先生の帽子が風に吹かれた落ちた』(p. 82).

先生が見ていた「透き通るような蒼い空」と,私を包む「若葉の色」と,風に吹かれて落ちた「先生の帽子」が,ありありと目に浮かんでくる. このほんのり心に染み入る巧みな情景描写. なんて素敵なんだろう.

明治時代を生きた夏目漱石と,今,平成時代を生きている自分が,途方もなく長い時空間を超えて一つのものを共有できていることにも感動してしまう.

夏目漱石の作品が国民文学と言われる理由が大人になった今になってやっと理解できたような気がする. 

『こころ』を読んだのはこれが初めてではない. 初めて読んだのは中学生のときだったような気がするし,その後も何度か読んだような記憶があるけれど,今のような気持ちにはならなかった. 言葉や文章が情報を伝達する以上の意味を持っているというのは,まさにそういうことなのかもしれない. つまり,言葉や文章の意味とは自分自身の歴史の映し出す鏡なのだと.

夏目漱石と同じ言語を母語として共有できたことはとてもありがたいことだとしみじみ思う.

他の作品も読んでみたい.

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