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引越しの荷物を送る.

研究関係の書類や本は大学の研究室へ,他の荷物は自宅へ,別便で送ることにした. クロネコヤマトさんの単身パックを利用した. 荷物を取りにきてくれたクロネコヤマトさんの男性スタッフは,インターホンに出ると,「どうも~,クロネコと申します」と自己紹介していた. クロネコかい. ちなみに,うちの隣のおばあちゃんはミケネコを飼っていますけどね. ミケネコかい. アナロジーで考えると,ミケネコヤマトの宅急便だってありだと思う. あると思います. くだらない. ところで,転居先に荷物が届くのが13日の金曜日なのだけれど,13日の金曜日にクロネコから荷物が届くというのは,なんとなく縁起が悪いような気がする. やっぱり,ミケネコヤマトがよかった. もういい. それにしても,今回の引越しはラクだった. ハワイ→日本の海外引越しのときは,一つのダンボールの重さが20キロを超えないように気をつけなければならなかったけれど(1キロ超えるごとに超過料金が加算されるからだ),国内の引越しは,重量制限がなく一つのダンボールにいくらでも積められるので,すごく助かると思った. 

Mar2_001  荷物を積めるときに,ハワイ大学の授業で使っていた教科書やハンドアウト,自分が書いたペーパー,そこに書かれた先生のコメントなどを改めて読み返してみた. ほんの2ヶ月前までハワイに住んでいて,ハワイ大学の授業に出て,シンクレア・ライブラリーにこもって毎日夜遅くまで勉強し,それらのことはほんの2ヶ月前までは確かに起こっていたことなのだけれど,今では何となく架空のもののように感じられる. そして,ほんの2ヶ月前までハワイにいたはずの自分自身でさえ架空のもののように思えてくる. 指導教授のオルテガ先生のモナリザの微笑を思い出してみる. 先生は確かに実在していたはずだけれど,今はその存在に現実感がなくなっている. カモーン. 

ハワイ大学で学んだはずのこと,経験したはずのこと,すべてのことが現実感を失ってしまっているのは,先月ハワイを去って日本に戻ってきてから研究を全然していなくて,正確に言うと,研究を回避していて,その結果,ハワイ大学で学んだはずのことと経験したはずのことに「意味づけ」ができていないからなのだと思う. つまり,次のステップへどうつなげていくのかが自分の中で見えなくなっているのだと思う. 過去や現在の経験を未来にどう生かすかは,誰か第三者が決めるわけではなく,すべて「自分次第」である. 人生の「舵取り」である. でも,人生のターニングポイントにおける「舵取り」というのは簡単なものじゃない. だから,休みたくなるし逃げたくなる. 今,自分はそういう状況にあるのかもしれない.

2月に日本に帰ってきてから,研究のことを考えるのが嫌になってしまって,研究関係の本や論文は全然読んでいないし,手直しする予定だったペーパーも全然直していない. その代わりに,ハワイで読めなかった日本語の本を手当たり次第に読み,アカデミックなこととは全く関わりのない文学の世界に逃げ込んでいた. 津村記久子氏の『ポトスライムの舟』を読み,村上春樹氏の『海辺のカフカ』を読み,加藤周一氏の『羊の歌』を読み,江国香織氏の『泣く大人』を読み,固く閉ざされた自分の心をもう一度押し開いてくれるような,気持ちの自然な発露を導いてくれるような,著者の文章力に感動し,文学の中で描かれる世界と現実を重ね合わせ,人間の弱さ,この世の不条理,不均衡な人間関係,孤独と喪失感について考え,自らを深め広げてくれる言葉とメタファーの威力を体感した. 

こうして,日本語の文学作品の文章を一行一行追いながら,本を一冊一冊丁寧に読んでいくうち,文章を書くことを改めて面白いと感じたが,同時に,自分がやろうとしている研究にはどんな価値がありどんな意味があるのだろうと考えてしまった.

自分の研究テーマは,リテラシー教育とかライティング指導とかライティングの教材開発とか,「書く」ということと「その教育」ということに関係しているわけだけれど,要するに,これは自分が「文章を書くこと」に興味を持っていることがきっかけになって生まれた研究テーマなのである. しかし,今は,書くことをどう教育するかということよりも,自分自身が作品を書いて発表していくことに興味が移りつつある. たとえば,ホノルル空港で働いている人々はなぜあんなに意地悪なのかとか,飛行機のトイレはなぜ男女兼用なのかとか,日本で販売されている化粧品の多くにはなぜ「お肌プルプル」とか「コラーゲン」という言葉が使われているのかとか,日本の朝のニュースではなぜ「お天気お姉さん」と呼ばれる若い女性が登場するのだろうか,なぜ「お天気おじさん」じゃだめなのかとか,みずがめ座の人の今日のラッキーアイテムはなぜ「うどん」なのかとか,なぜいちいち「七味をたっぷりかけてね」とアドバイスされなければならないのかとか,多くの人が見過ごしてしまいがちな様々な怪奇問題を取り上げ,それらを,自分の居場所を探し続ける旅をする日本人女性の視点から分析し,メタフォリカルに,アイロニックに描写してゆくのである. 主人公は言うまでもなく自分である. 自分かい. やっぱり物書きには向いていないでしょうかね.

そもそも,リテラシー研究って何なのだろうか?という気もする. 書くことを教え,その結果書く力がどれくらい伸びていくのかを研究するということは果たして"feasible"なのだろうか. リテラシーというのは,経験の積み重ねによって得られる知識であり,多くの場合,明示的には意識されないものである. つまり,これは,マイケル・ポランニーの言うところの「暗黙知(tacit knowledge)」であって,何によって何がどう伸びたのかは言葉で明示的に語るのは難しいということである. 研究によって,ある指導の教育効果が発見できればそれはそれで大変素晴らしいことであるとは思うけれど,何を持って「効果がありました」と言えるのだろうか. そもそも,教育効果の「効果」って何なのだとも思う. データを統計にかけて実験群と統制群で有意な差が見られたというだけで効果があったと結論付けられるのだろうか. 数値で結果が示されなければ,すべての指導法や教育プログラムは無価値ということになるのだろうか. 実証できないものはすべて疑えというのは「医学」では当たり前の決まりごとであるけれど,この実証主義は「教育」の分野にもあてはまることなのだろうか. 

考えれば考えるほど,自分がやろうとしている研究は意味があるのか,あるいは,そもそも"feasible"なのだろうかという思いが頭の中をかけめぐる. 

また大学というアカデミックな場所で毎日を過ごすようになると,こういう疑問とか迷いも消え,研究に没頭できるようになるのかもしれないけれど. 小説を読みすぎて空想の世界に逃げ込んでいるだけなのかもしれない. オルテガ先生に「あなたが今やるべきなのは博士論文を書くことで,ハルキ・ムラカミを読んでいる場合じゃないでしょう.カモーン」と怒られてしまうかもしれない.

現実に戻らなければならないのかもしれない. 

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