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latent variables behind classification

Nov_11_002Veterans Dayで大学はお休みだけど,大学へ行く.

緑につつまれたこの道は,平日は若い人たちでにぎわうセサミ・ストリートであるが,休日はうってかわって静かで大人なセシル・ストリートとなる.

# セシル・ストリートというのは今ふと思いついた造語です.

セサミとセシル.

セサミな人々が集まる大学という場所にいると時々とても疲れることがある. なので休日に,こうして静かで大人なセシル・ストリートを歩けると何だかやっと自分を取り戻せたような気持ちになってほっとする.

午後,バイリンガルの言語処理メカニズムに関するレクチャーを聞く. バイリンガルを認知心理学的に研究しようという試みがあるらしい. 複数の言語知識は分離しているのではなく共有されているというお話. だったと思います. なんか難しくて言ってることがよく分かりませんでした. 日本語・英語バイリンガルの人がネコの絵を見て最初に出る単語は「猫」か"CAT"か. 自分だったら「猫」っていうだろうなと思いました. "CAT"なんて言ったらタカ&トシに「欧米か」って突っ込まれて頭をパチンとたたかれてしまいそうです. とかどうでもいいことを考えてみたり. unobservableな要因をobservableな現象によって説明すること自体が複雑で難しいということなのですね,たぶん.

最近,統計の授業で"descriminant analysis(判別分析)"という手法を学んでいて,「AとBとCというグループを分ける決定的要因は何か」というようなことをいつも考えている. その影響か,今日のレクチャーを聞きながら,自分が「レクチャーを理解できないグループ」に入るのだとしたら,「レクチャーを理解できるグループ」との違いを作っている要因は何なのだろうかとか考えたりした.

考えられるvariablesとしては,「専門知識の欠如」,これは聞き手に属する要因. そして,「プレゼンテーション力」,これは話し手に属する要因. 今日の場合はどっちが影響したのか. 7:3くらい. いや,6:4くらい. と理解できないことを人のせいにする傾向あり. 出席者全員からデータを取って分析したらおもしろいのではないかとか考えたりした. そんなことを考えているからあかんのだと言われてしまいそうですけれども.

セサミとセシルを分ける要因も決して「年齢」だけではない. 自分より年上だけど若い人に負けないくらいのエナジーとパワーのある人を知っている. 

世の中には,目には見えないけれど確実に「そうであるもの」と「そうでないもの」を分けている要因が存在しているような気がする. その目に見えない要因を追究するのが社会科学系の研究が目指すところなのだと思った. 

レクチャーの後,授業に出て,その後,スタバに行って論文を読んだ. 店内で,たぶん3-4歳くらいの日本人の女の子が「ママー,ママー」と大きな声でママを探していて,やっとママを見つけたときにママのところに飛びついていったのだけれど,この光景がなんかとてもほほえましくて心を動かされてしまった. お母さんになるということは大きな責任を伴うので誰もがなれるものではないような気がするが,多くの人々がお母さんになっている. とても勇気があると思う. 自分も女性に生まれてきた以上はお母さんという立場にいつかなりたいと思うけれども,今の感じでいくと,もしかすると一生お母さんにはなれないで終わってしまうのかもしれないなと思ったりした. 

ママになれる人となれない人を分ける要因があるとしたら,それは他人のために自分を犠牲にできるかどうかだと思った. 

世の中の様々な現象に裏にあるlatent variablesについて考えた一日.

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コメント

さすがですね。さっちーさん。すごい organized thought です。fuzzy で foggy な私としては、その才能が羨ましい。授業でもpaper は 非の打ちどころのない作品を作られていると確信し、羨ましい気がしました。イケメンな教師にもpaper を叩き付けてやってください。本当にあの日はキャンパスは静まりかえって peaceful な気もちになれて嬉しかったです。レクチャーは全然わかりませんでしたが。私もさっちーさん以上に普段は若者達の群れの中に自分を失い、浮き足立った毎日を送っています。たまには休日にキャンパスを闊歩しなければいけませんね。

投稿: kazuya kawanami | 2007年11月14日 (水) 15:36

>ママになれる人となれない人を分ける要因があるとしたら,それは他人のために自分を犠牲にできるかどうかだと思った.

私はママになれない人なのに、ママになってしまったように思います。
確かにママになってみて、自分を犠牲にできるようになった部分はあるけど、やっぱり、どこかで自分のためになることもしたくて、ゆらゆらしながらこうして北京に来てしまった。

私はたまたま魔がさしてママになってしまったタイプです。偶然的にママになった人と必然的にママになった人ってのも分類できるかな?
 

投稿: Hitomi | 2007年11月15日 (木) 13:58

ママになれる人となれない人を分ける要因があるとしたら,それは他人のために自分を犠牲にできるかどうかだと思った.

ん・・・。私はみんなママになれると思う。勇気がなかったり自信がない人こそママになってほしい。
我慢が出来なくても出来ても必ず子供の為には何かしてる。我慢してる。そんな我慢がとてもストレスになる。みんな同じだと思う。自分の全てを犠牲に出来るひとなんてきっと居ないと思うし全て子供中心の生活をする事がいい親だとも思わない。今はそんな気がする。子供に我慢さすことも教育の一つだと思うし・・・。
『子育ては親育て。』とはよく言ったものだ。
子育て中はよく泣いた。ものにもよくあたった。でも凛は私の子供。私は凛のママ。自信を持って今そう言いいたい。

投稿: ゆみこ | 2007年11月15日 (木) 14:43

【kawanamiさま】
こんにちは.

非の打ちどころのない作品なんてとんでもないですよ.非の打ちどころのない作品を作れるようになりたいです.

お休みの日のキャンパスは静かで緑がいつも以上にきれいに見えますね.

あと数週間で今学期も終わりですね.ブレイク期間が待ち遠しいですね.

またお会いできるのを楽しみにしています.

【Hitomiさん】
こんにちは.

Hitomiさんはママになれない人ではないと思いますよ.ちゃんと両立できていてすばらしいなと思います.

家族の支えがあるからこそできることってあるような気がします.たぶん,研究も.自分の家族があるってすてきなことですね.

【ゆみちゃん】
ゆみちゃん,元気にしてますか.

凛くんと一日一緒に過ごして,ほんとに大事に育てられているんだなーと思ったよ.ゆみちゃんとゆーさんの愛情がたっぷり注がれていて,それが伝わってきました.そして,二人がとても大人に見えてしまった.いつのまに二人はこんなに立派な大人になったんだーって.ほんとにえらい.

『子育ては親育て』.教師と生徒の関係と同じですね.

またゆみちゃんに教えられました.わたしも育ててもらってます.ありがとう.

投稿: satchy | 2007年11月15日 (木) 18:13

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