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言語の恣意性について語らせていただく

「虹は何色ですか?」

と聞かれたら、日本人は多くの人が「7色です」と答えると思う。

でも、色のとらえ方は国によって違っていて、たとえば、アメリカ人は虹を6色と考えている人が多いし、中国人は5色、インドネシア人は4色と考えているらしい。

つまり、色の分割の仕方には根拠がなく、分割は「恣意的に」行われている。

恣意的な分割は、歴史にも言える。

昭和時代から平成時代への移り変わりを、おそらく何百年後かに歴史を学ぶ子どもたちは、ここで時代がものすごく反転したように思うかもしれない。 でも、実は大きな差はなく、むしろ連続的な面が強かったと思う。 当時、わたしは制服姿の初々しいティーンだったけれども(自分でいうな)、「今日から平成1年なのか。それがなにか?それより光ゲンジ~」という感じだった。(ちなみに山本くんのファンだったと思います。誰がわかるねん。)

つまり、歴史も、恣意的に、昭和、平成という時代区分をしただけだということである。 歴史とは恣意的な同一性でくくられた「物語」であり、「事実」ではないということである(池田、1997)。

こうした「言語の恣意性」は、ソシュールの構造主義に基づくものである。 ソシュールは、言葉は恣意的であって実体や本質を指しているのではないと主張した。 

日本で起きている最近の様々なニュースを聞いて、ソシュールの「言語の恣意性」について思いを馳せる今日この頃。

「牛肉コロッケ」は実は「牛肉コロッケ」ではなかったとか。

事件を「摘発する」側のはずの公安庁長官が実は「摘発される」側だったとか。

なんかウソばっかやん。

「牛肉」とか「公安庁長官」とか、ソシュールさんのいうとおり、単に「恣意的に」つけられた空虚な名前に過ぎないのだと思う。 

何かのきっかけで同一性をくくる基準がこれまでとはまったく違うものになり、正しいと信じていたことがくつがえされることがあるということを改めて実感せざるを得ない今日この頃。 「本質」とか「実体」は一体どこにあるのだろう。 「常識」だ考えていることも実はただの「仮説」に過ぎないということなのだろう。

ところで「神戸コロッケ」は大丈夫なのだろうか。

「神戸コロッケ」も恣意的に与えられた言葉なのだとしたら本質はどうなのかわからないのだ。 もう並んでゲットしようとするのはやめるべきだろうか。 はてはて。

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